学校教育研究科Graduate School of Education

学校教育研究科 教員リレーエッセイ

教員リレーエッセイ

中山 理 NAKAYAMA, Osamu

道徳の教科化の時代を迎え、道徳教育とは何かを科学的、学問的に学ぶ

エリザベス・キスとJ・ピーター・ユーベンの著書『道徳教育を論ずる―近代の大学の役割を再考する』(2010年)では、ここ30年くらいの間に、現在のアメリカの学会では倫理研究への回帰が起こっており、倫理を研究するセンターや教育プログラムが設立され、その数は100を超えると述べられています。
しかし現在の日本では、グローバル化の時代を迎えていると言いながら、一部の研究機関を除いて、一般に「道徳」と聞くだけで花粉症のように一種のアレルギー反応を起こす傾向があるためか、大学などの高等教育機関では、道徳教育を対象とした学問領域もなければ、講座や専攻もありません。端的に言えば、大学と大学院レベルでの倫理・道徳に関する理論的研究が不足しているという深刻な現状にあります。
その影響は、学校教育、特に道徳教育にも及んでいます。戦後の学校教育では、1950年に天野貞祐文部大臣が「修身科」の復活を発言した時から、道徳教育が学校教育自体の問題というよりも、政治的イデオロギーの争点となって久しく、これによって道徳教育は賛成か反対かの二項対立的図式が成立しただけで、肝心の道徳教育の中身については科学的、学問的な考察が十分になされていないような感を覚えます。その間、感情的な道徳教育の否定やタブー視はあったとしても、「道徳教育はどうあるべきか」の本質的な議論はなおざりにされたままなのです。
「道徳の時間」が教科化されたとしても、道徳を教えるスキルとコンピタンシーを備えた教育体制の準備は整っていると言えるでしょうか。小学校は平成30年度から、中学校は平成31年度から特別の教科としての道徳が教えられることになるので、待ったなしの状況です。
ただし、これを教員個人の問題だけに矮小化してはならないでしょう。そもそも、高等教育における教員養成に大きな制度上の問題を抱えていることが、このような事態を招いている一因と言えるのではないでしょうか。大学では教育職員免許法施行規則により将来教員をめざす大学生が学ぶべき道徳教育関連の必修科目は「道徳の指導法」しかありません。大学4年間でたったの2単位(90分×15回)、それも小中学校のみで、高等学校の教員免許状は、この2単位さえ不要なのです。要するに「教職に関する科目」にも道徳教育について学ぶ科目がないと言えます。これまでの道徳教育に議論の土台もモデルもないままの状態で道徳を教科化した場合、教育現場で真摯に道徳教育の取り組んでいる先生ほど戸惑いと不安を覚えることでしょう。この現状を打開するためにも、道徳教育を学問的、科学的に追求し、子どもたちを幸せにする道徳教育に真摯に取り組む人々を支援する大学院の設立が急務なのです。

川久保 剛 KAWAKUBO, Tsuyoshi

道徳教育の成立条件

自己には二つの意識のありようが存在する。
ひとつは、「自意識」で、もう一つは「自覚」である。
前者の「自意識」は、私は私、という風に、自己を世界から切り離して、閉じた状態においてとらえる、そのような意識のありようを指す。
それに対して、後者の「自覚」は、自己を世界や場所に開いて、そこに立ち現れる他者との関わりにおいて自己をとらえる、そのような意識のありようを意味する。例えば人間は、自己を社会に開くことで、はじめて社会人としての自覚を持つ。そして社会人としての他者への責任を意識する。
このような自己のありようの違いは、哲学者・上田閑照の所説を参照したものだが、道徳というものを考えるにあたり、重要な示唆を与えてくれよう。
道徳は、自己と自己、自己と他者、自己と共同体、自己と自然・超越との関係性、つまり人間を取り巻く多次元的な「かかわり」の中で、人間の生をとらえ、そのより良きありようを示すものである、といえよう。
道徳がこのような意味をもつとすれば、まず自己が「かかわり」の場、つまり世界に開かれていることが、その学びの前提とならねばならないだろう。つまり「自覚」に立ってこそ、道徳というものが自己や人間の課題として意識されるのである。
道徳教育は、「自覚」という自己のありようを条件として成立するものといえよう。言いかえると、閉じた自己を世界に開いた時に、道徳という学びの領域が同時的に開かれるのである。

山下美樹 YAMASHITA, Miki

教育者の自己改善と使命を見出す機会

「あなたはなぜ教鞭を取るのか」“Why do you teach?” という、アメリカ人の恩師の真っ直ぐな問いに衝撃を受けた記憶は今でも鮮明に残っています。イェイツ(1865-1939)は「教育は手桶を満たすことではない 火を灯すことなのだ」と詩っています。まさに「教師や学問との出会いは自意識の目覚めと自己理解の助けとなる」(パーマー P.J. Palmer 1998, “The Courage to Teach” 邦題『大学教師の自己改革:教える勇気』吉永契一朗訳, 2000)でしょう。
パーマーは、相対的評価や現代社会のさまざまな圧力のなかで「客観的な知識」を詰め込むことで精一杯の学校教育の現場では、ややもすれば教員と学習者の関係は「切り離される」結果となってしまうと論じています。共同で学ぶアクティブラーニングが初等・中等・高等教育の現場で急速に導入されていますが、そのような状況下で教員と学習者が「真に繋がる」教育環境を創造するためには、教員の自己改善のための省察が不可欠であるとパーマーは述べています。「授業は教師自身を写し出す」という彼の核心を突いた指摘は教育者の自己理解と自己改善の重要性を説いています。自己改善は面倒なことというよりも、むしろ自分自身の思い込みの囚われから解放され、励みとなるものです。道徳教育の観点から、教員自身が自己内対話・省察をすることで、困難を昇華することに繋がるでしょう。
学校教育研究科道徳教育専攻では学習者と抽象的で客観的な事例だけではなく、具体的で個別的な事例を扱い、異なる視点から答えのない問いについて「共に探究」していく術を体得することができます。教員と学習者がお互いの立場と礼儀をわきまえながら、対等な立場で双方向に自己を引き出すことで、お互いに「自己認識の目覚めと自己理解」が深まるでしょう。道徳教育は課外活動も含めた教育活動全体を通じて成り立ちます。道徳教育を探究していくことで、教育に携わる方々全ての自己改善と使命、「あなたはなぜ教鞭を取るのか」の答えを見出す機会となることが期待できます。

富岡栄 TOMIOKA, Sakae

道徳科教育学の確立に向けて

周知のとおり、「特別の教科 道徳」(道徳科)が小学校では来年度より、中学校では再来年の2019年度より全面実施となります。このことは、道徳教育にとって1958年に「道徳の時間」が特設されて以来の歓迎すべき画期的な出来事であると考えています。これまでの「道徳の時間」は、学習指導要領解説特別の教科道徳編でも『歴史的経緯に影響され,いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮があること,他教科に比べて軽んじられていること,(中略)多くの課題が指摘されている。』と述べられており、歴史的経緯やイデオロギーの中で翻弄され、子供たちにとって大切なものであると認識されてはいるものの軽視化されてきた傾向がありました。今回の教科化で、子供たちの幸せの実現を図る道徳教育が、質量ともに充実していくことと確信しています。
ところで、学校教育の各教科では、「理科教育」「数学科教育」のように教科教育学が学問領域として確立しています。しかし、残念ながら、道徳教育は教科でなかったことや軽視化されてきたことなどもあり、「道徳科教育学」なるものは確立していません。やはり、教科が充実・発展していくためには教科教育学の確立が必要です。今後、道徳教育の継続的な充実のために理論と実践を往還させながら、道徳科教育学の確立を図っていくことが重要であると考えます。

江島顕一 ESHIMA, Kenichi

道徳教育を担うということ

本学に着任以来、建学以来(1935年)の最古の科目である「道徳科学」という必修の授業を受け持っている。また、教職課程を担当し、「道徳教育の研究」という授業を受け持っている。
つまり私は、一方で入学して来たばかりの大学生に道徳を教えながら(年間30回)、他方で教員を目指す学生に道徳の指導法を教えている。道徳教育を研究する一大学教員として大変恵まれた環境に身を置いていると思っている。
しかし、前者の大学生に道徳を教えることについては、今日まで試行錯誤を重ね、そして今なお悩みや迷いが尽きない。
すなわち、自分のような不道徳(非道徳)な人間が道徳など教えられるのか、あるいは教えていいのか、ということである。
日本教育史という学問領域を専門としていることもあって、こうした自らの問いを過去の先人たちに尋ねてみることにした。しかし、先人の言葉は予想に反して非常に厳しかった。
例えば、大正期に隆盛した新教育運動の担い手であり、「合科学習」を主唱しながら、修身の教授改革を提起した奈良女子高等師範学校付属小学校の主事であった木下竹次(1872—1946)は次のような言葉を残している。 修養は学習者自身の仕事であるけれども、修養に優秀な指導者のあることは特に大切である。自分の修養は一向に之を顧みないで、徒に修身教授を実行して居るのは無頓着に過ぎるが、自分はとても道徳の師と為ることが出来ないと卑屈退嬰の精神を起すのは思慮が余りに浅いと云はねばならぬ。(『学習各論』上巻、目黒書店、1926年、481-482頁) 私は問い返してみたくなった。それでは道徳的な人間でなければ、道徳を教えることはできないのか、と。教師とて聖人君子ではない。失敗や間違いもある。それは許されないのかと。常に正しくなければ教壇に立つ資格はないのかと。

木下は続けて次のような言葉を残している。 吾々は誠実を以て人生に処することは出来る。又誠実を以て学習者に対することも出来る。

強烈なる求道心も持ち得る。現在は不完全であるが、今後に於て発展することは出来る。道徳は何人も実行の出来るものである。道徳に不可能底の要求は無い筈である。学習者と共に自分も修養せうと痛切に念ずれば、其処に修養指導の教師たる資格は具備する。教師は修養の師となることが出来ると先づ自分が自分を信ぜねばならぬ。(同上、482頁)
こうした先人の言葉を学びながら、自問自答を繰り返してきた、現時点での私の回答はこうである。
道徳的でなければならないのではなく、道徳的であろうとする教師に、道徳を教える資格は具備する。
教師という存在は、must be ではなく、want to be であることが大切なのではないかと。
少なくとも私は道徳的な人間とは言い難いが、道徳的であろうと志向している人間ではある。
そうした私の考えや思いに、これまで出会った学生たちは真摯に耳を傾け、真剣に向き合ってくれてきた。
これからもこの問いは私が教壇に立つ限り、絶えず考え続けなくてはならないものであると思う。
道徳教育を担うということは、教師としての自らの在り方を常に問い直していくということに他ならないと考えている。

鈴木明雄 SUZUKI, Akio

公に生きる日本人を育てる

国立教育政策研究所の5年にわたる調査研究から、日本人の21世紀型能力として「実践力」を国は掲げました。この実践力と昭和33年の特設道徳の時に創られた「道徳的実践力(道徳性の諸様相である道徳的判断力・心情・実践意欲と態度等)」との棲み分けが難しいことから、道徳的実践力は次期学習指導要領「特別の教科道徳」の目標から消えました。
今、新しい道徳科授業では、道徳的な心情を深く育てるだけでなく、自分で考え、仲間と議論し、更にメタ認知として自分を振り返り、問題を自分事として実践できる力が求められています。即ち主体的に考え、社会に貢献し実践力のある道徳性を養う道徳科であるわけです。
世の情勢は私事優先(プライバタリゼーション)で、日本人としてのよさである公(おおやけ)に生きる姿勢が失われていると指摘されています。また多くの国では、私を優先し公に生きる人が少なくなったと言う人もいます。中国の孫文は、かつて揮毫を頼まれると「天下為公(天下ヲモッテ公トナス)」と書いたそうです。
念願の日本で初めての大学院道徳教育専攻修士課程が生まれます。公に生きる真の日本人の育成のための道徳教育はどうあるべきか、現職の先生方がこの問題にどう取り組みどう成果をあげることができるのか、襟を正して考えているところです。

宮下和大 MIYASHITA, Kazuhiro

大学生たちは小中高校での道徳の授業をどのように振り返っているか

麗澤大学では小中学校と同様に全学生の必修の授業として「道徳科学」という科目が配置されている。この授業は本学開校以来一貫して継続的に開講されている基幹科目でもある。当然ながら大学で道徳の授業があるということに対しては大学生たちの間でもその反応は様々である。毎年、この授業の受講生たちを対象に小中高校で受けてきた道徳教育についてのアンケート調査を実施している。今年度も六六一名の大学二年生からの回答を得たが、「道徳の授業が好きだったか/嫌いだったか/どちらでもないか」という問いに対して「好きだった」が五二%、「嫌いだった」が七%、「どちらでもない」が四一%という結果であった。つまり、約半数はこれまで受けてきた道徳授業を好意的には評価していない。
小中高校での道徳授業が「嫌いだった」理由を見てみると、「押しつけに聞こえた」「きれいごとに聞こえた」「当たり前のことばかり」「正解がわからない」などが挙げられるとともに、授業のスタイルに対する苦手意識が非常に多く挙げられる。「自分の意見をまとめて発表するのが苦手だった」「人前で話すのが苦手だった」「自分の気持ちを伝えるのが苦手だった」など、道徳の授業が双方向的な対話を中心として自分の意見を表現することを求められるところに苦しさを感じていた学生が少なくなかったことが垣間見える。
このことは道徳の授業の範囲を超えたクラスの雰囲気や関係性、学校の校風など、より大きな文脈での検討を要するテーマでもあるが、実質的な道徳教育を進めていくためには欠かすことのできない課題ではないだろうか。

橋本 富太郎 HASHIMOTO, Tomitaro

風土と習慣そして道徳

新型コロナウイルスの蔓延には世界各国が対応に追われ、多くの国でロックダウンなどの厳しい措置が取られる中、日本では比較的ゆるやかな規制が採られてきた。それが曲がりなりにも奏功してきたいくつかの要因の中には、日本人の衛生観念があるという。手洗い・うがいや毎日の入浴、家では靴を脱ぐなどの特徴的な風習に現わされるものである。
こうした習慣は、豊かな水資源に支えられた日本の風土によってもたらされたものであるのはいうまでもなく、それこそ縄文時代から続く日本の文化といえよう。
ここで注目されるのは、それが日本人の道徳観念とも深く関わっている点である。教育人間学者下程勇吉によれば、水浴に親しんだ日本人が、「それに清潔・純粋・透明・潔白等の道徳的宗教的意味を与え」、「膚に垢をとどめることと心に汚れを宿すこととは、一味である」(『日本の精神的伝統』)としたという。
このようなところからも、生活習慣と文化、そして道徳との関連を問い直していくヒントがあるのではないだろうか。こうした観点により、環境・風土といった基盤から、文化との関連を見据えつつ日本の倫理思想史を堀り下げていきたいと思っている。

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