学校教育研究科Graduate School of Education
学校教育研究科 教員リレーエッセイ
教員リレーエッセイ


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江島 顕一 ESHIMA, Kenichi
道徳教育を担うということ
本学に着任以来、建学以来(1935年)の最古の科目である「道徳科学」という必修の授業を受け持っている。また、教職課程を担当し、「道徳教育の研究」という授業を受け持っている。
つまり私は、一方で入学して来たばかりの大学生に道徳を教えながら(年間30回)、他方で教員を目指す学生に道徳の指導法を教えている。道徳教育を研究する一大学教員として大変恵まれた環境に身を置いていると思っている。
しかし、前者の大学生に道徳を教えることについては、今日まで試行錯誤を重ね、そして今なお悩みや迷いが尽きない。
すなわち、自分のような不道徳(非道徳)な人間が道徳など教えられるのか、あるいは教えていいのか、ということである。
日本教育史という学問領域を専門としていることもあって、こうした自らの問いを過去の先人たちに尋ねてみることにした。しかし、先人の言葉は予想に反して非常に厳しかった。
例えば、大正期に隆盛した新教育運動の担い手であり、「合科学習」を主唱しながら、修身の教授改革を提起した奈良女子高等師範学校付属小学校の主事であった木下竹次(1872—1946)は次のような言葉を残している。 修養は学習者自身の仕事であるけれども、修養に優秀な指導者のあることは特に大切である。自分の修養は一向に之を顧みないで、徒に修身教授を実行して居るのは無頓着に過ぎるが、自分はとても道徳の師と為ることが出来ないと卑屈退嬰の精神を起すのは思慮が余りに浅いと云はねばならぬ。(『学習各論』上巻、目黒書店、1926年、481-482頁) 私は問い返してみたくなった。それでは道徳的な人間でなければ、道徳を教えることはできないのか、と。教師とて聖人君子ではない。失敗や間違いもある。それは許されないのかと。常に正しくなければ教壇に立つ資格はないのかと。
木下は続けて次のような言葉を残している。 吾々は誠実を以て人生に処することは出来る。又誠実を以て学習者に対することも出来る。
強烈なる求道心も持ち得る。現在は不完全であるが、今後に於て発展することは出来る。道徳は何人も実行の出来るものである。道徳に不可能底の要求は無い筈である。学習者と共に自分も修養せうと痛切に念ずれば、其処に修養指導の教師たる資格は具備する。教師は修養の師となることが出来ると先づ自分が自分を信ぜねばならぬ。(同上、482頁) こうした先人の言葉を学びながら、自問自答を繰り返してきた、現時点での私の回答はこうである。
道徳的でなければならないのではなく、道徳的であろうとする教師に、道徳を教える資格は具備する。
教師という存在は、must be ではなく、want to be であることが大切なのではないかと。
少なくとも私は道徳的な人間とは言い難いが、道徳的であろうと志向している人間ではある。
そうした私の考えや思いに、これまで出会った学生たちは真摯に耳を傾け、真剣に向き合ってくれてきた。
これからもこの問いは私が教壇に立つ限り、絶えず考え続けなくてはならないものであると思う。
道徳教育を担うということは、教師としての自らの在り方を常に問い直していくということに他ならないと考えている。
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川久保 剛 KAWAKUBO, Tsuyoshi
道徳教育の成立条件
自己には二つの意識のありようが存在する。
ひとつは、「自意識」で、もう一つは「自覚」である。
前者の「自意識」は、私は私、という風に、自己を世界から切り離して、閉じた状態においてとらえる、そのような意識のありようを指す。
それに対して、後者の「自覚」は、自己を世界や場所に開いて、そこに立ち現れる他者との関わりにおいて自己をとらえる、そのような意識のありようを意味する。例えば人間は、自己を社会に開くことで、はじめて社会人としての自覚を持つ。そして社会人としての他者への責任を意識する。
このような自己のありようの違いは、哲学者・上田閑照の所説を参照したものだが、道徳というものを考えるにあたり、重要な示唆を与えてくれよう。
道徳は、自己と自己、自己と他者、自己と共同体、自己と自然・超越との関係性、つまり人間を取り巻く多次元的な「かかわり」の中で、人間の生をとらえ、そのより良きありようを示すものである、といえよう。
道徳がこのような意味をもつとすれば、まず自己が「かかわり」の場、つまり世界に開かれていることが、その学びの前提とならねばならないだろう。つまり「自覚」に立ってこそ、道徳というものが自己や人間の課題として意識されるのである。
道徳教育は、「自覚」という自己のありようを条件として成立するものといえよう。言いかえると、閉じた自己を世界に開いた時に、道徳という学びの領域が同時的に開かれるのである。
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鈴村 邦夫 SUZUMURA, Kunio
道徳教育の専門家として、未来を拓く教師へ
「考え、議論する道徳」の実装に向けて、道徳教育はいま大きな転換点を迎えています
昭和33年の「道徳の時間」創設以来の大改革として、「特別の教科 道徳」が始まり7年以上が経ちました。教科化によって形式は整い、教科書の使用や「主体的・対話的で深い学び」に向けた様々な授業改善や評価の研究が積み重ねられてきました。
しかし、現場の課題は決して小さくありません。現在、次期学習指導要領の検討が始まり、「考え、議論する道徳」の実装に向けた協議が進められています。また、学びの在り方について道徳科の授業の実装に向けてデジタル学習基盤や生成AIへの対応、多様性を包摂する道徳教育の在り方など、学びの環境は大きく変化し、教師に求められる力量はますます高度化しています。
今まで、こんな疑問を抱いたことはありませんか。その問いを、大学院へ
「どうすれば、子どもたちが本音で語り合える道徳授業になるのか」
「活発な授業だったけど、子どもたちは自分ごととして課題に向き合っていたのだろうか」
「これまで、工夫を重ね授業実践を積み重ねてきた。しかし、よく考えると経験と勘に頼りすぎてはいなかっただろうか。さらによくするための理論があるのではないか」
こうした問いこそが、大学院で学ぶ出発点であり、何よりの財産です。
本大学院は、道徳教育を専門的に学びながら、自らの実践を理論的に捉え直し、授業改善へとつなげていく場です。これまでの学び、或いは学校現場で積み重ねてきた豊かな経験と、大学院で得る専門的知識とを往還させることで、日々の実践に新たな視点と確かな裏付けが生まれます。
理論と実践をつなぐ~本大学院ではこんな学びがあります。ぜひご一緒に学びませんか
ここでは、道徳に関する専門研究者と、校長・指導主事経験者など実務家教員が指導にあたります。授業づくり、教材研究、評価、生徒指導、学校経営との関連や修士論文の作成など、多面的な視点から道徳教育を深く探究することができます。いじめ、不登校、情報モラル、多様性の包摂、ウェルビーイングなど、今日の学校教育における道徳教育の役割は一層大きくなっています。「考え、議論する道徳」をどう実装するか。これからの切実な問いに、理論と実践の両面から向き合うことができます。
同じ志をもつ仲間との学び合いという財産~「学び直し」と「学び続ける力」をぜひ
同じ志をもつ者同士が互いの実践を語り、省察し合う時間は、一人では得難い大きな財産です。異なる経験・地域・校種等をもつ仲間との対話が、新たな気づきと実践の改善につながっていきます。大学院での学びは、単なる知識の習得ではありません。これまでの教育実践に新たな意味を与え、これからの授業や子ども理解をさらに豊かなものへと高めていく「学び直し」であり、「学び続ける力」を育む機会です。道徳教育が社会からますます期待されるこの時代に、より深く、より実践的に道徳教育を探究したい方々にとって、またとない学びの場となることでしょう。「学び続ける者のみが教える資格がある」-この言葉を胸に、私も皆様と共に学び合い、成長してければと思っています。
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中山 理 NAKAYAMA, Osamu
道徳の教科化の時代を迎え、道徳教育とは何かを科学的、学問的に学ぶ
エリザベス・キスとJ・ピーター・ユーベンの著書『道徳教育を論ずる―近代の大学の役割を再考する』(2010年)では、30年くらい前から当時に至る間に、現在のアメリカの学会では倫理研究への回帰が起こっており、倫理を研究するセンターや教育プログラムが設立され、その数は100を超えると述べられています。
その本が上梓されてから16年の月日が経過していますが、日本の道徳教育に関する学際的研究はどのような状態にあるのでしょうか。現在の日本では、グローバル化の時代を迎えていると言われて久しいですが、一部の研究機関を除いて、大学などの高等教育機関では、道徳教育を対象とした学問領域も十分に進化していないだけでなく、道徳教育に特化した講座や専攻も充実していないように思われます。端的に言えば、大学と大学院レベルでの倫理・道徳に関する理論的研究が不足しているという深刻な現状にあるのではないでしょうか。
2018年度(平成30年度)から小学校で、2019年度(平成31年度)から中学校で、道徳の教科化が全面実施され、教科化に伴い、教科書の導入、評価の実施、授業の質の変化など、授業の形式や仕組みが大きく変わりました。しかしその一方で、道徳を教えるスキルやコンピタンシーを備えた教育体制は整っているかというと、未だに改善の余地が多々あり、今までにない新たな教育上の問題も生じているのではないでしょうか。
それ以前のこととして、高等教育における教員養成に大きな制度上の問題を抱えていることが、このような複雑な事態を招いている一因であることを想起しなければなりません。大学では教育職員免許法施行規則により、将来教員をめざす大学生が学ぶべき道徳教育関連の必修科目は「道徳の指導法」しかありません。大学4年間でたったの2単位(90分×15回)、それも小中学校のみで、高等学校の教員免許状は、この2単位さえ不要なのです。要するに「教職に関する科目」にも道徳教育について本格的に学ぶ科目がないと言えるのです。これまでの道徳教育に議論の土台もモデルもないままの状態で道徳を教科化したわけであり、教育現場で真摯に道徳教育の取り組んでいる先生ほど戸惑いと不安を覚えているかもしれません。この現状を打開するためにも、道徳教育を学問的、科学的に学びなおし、子どもたちのウェルビーイングを高める道徳教育の在り方を、本学の大学院で学んでいただければと思います。
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橋本 富太郎 HASHIMOTO, Tomitaro
風土と習慣そして道徳
新型コロナウイルスの蔓延には世界各国が対応に追われ、多くの国でロックダウンなどの厳しい措置が取られる中、日本では比較的ゆるやかな規制が採られてきた。それが曲がりなりにも奏功してきたいくつかの要因の中には、日本人の衛生観念があるという。手洗い・うがいや毎日の入浴、家では靴を脱ぐなどの特徴的な風習に現わされるものである。
こうした習慣は、豊かな水資源に支えられた日本の風土によってもたらされたものであるのはいうまでもなく、それこそ縄文時代から続く日本の文化といえよう。
ここで注目されるのは、それが日本人の道徳観念とも深く関わっている点である。教育人間学者下程勇吉によれば、水浴に親しんだ日本人が、「それに清潔・純粋・透明・潔白等の道徳的宗教的意味を与え」、「膚に垢をとどめることと心に汚れを宿すこととは、一味である」(『日本の精神的伝統』)としたという。
このようなところからも、生活習慣と文化、そして道徳との関連を問い直していくヒントがあるのではないだろうか。こうした観点により、環境・風土といった基盤から、文化との関連を見据えつつ日本の倫理思想史を堀り下げていきたいと思っている。
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松原 好広 MATSUBARA, Yoshihiro
道徳化の授業における「問い続ける学び」の探究
現代社会は変化が激しく、多様な価値観が共存しています。そこでは、単に「正しい答え」を早く導き出す力だけでなく、自らの生き方を問い続ける力が不可欠です。教育とは知識の習得にとどまらず、子どもたち一人一人が自分の感じ方や考え方を見つめ直し、「自分はどう生きるのか」を主体的に模索していくプロセスであると考えています。
道徳科の授業を、単なる「価値の理解」や「行動目標の確認」の場にはしたくありません。私は、以下の3つのプロセスを重視した授業づくりを探求しています。
・感じる: 教材や登場人物の姿に、まずは素直に心を動かす。
・揺れる: 他者の考えとの出会いや価値の葛藤を通し、既存の価値観が揺さぶられる。
・問いを抱く: 「本当にこれでいいのか」という、自分なりの問いを抱き続ける。
子どもたちの沈黙や言い淀み、迷いこそが深い学びの証です。一義的な結論に収束させるのではなく、「答えの出ない問い」に多面的・多角的に向き合う時間を大切にしています。
本大学院では、理論の探究はもちろんのこと、「現場の実践」と「研究」の往還を重視します。
・子どもの発言やワークシートから、心が動いた瞬間を丁寧に読み解く。
・教材研究や学級経営、特別活動における具体的な悩みを共有し、解決の糸口を探る。
教育の成果は、すぐに見えるものばかりではありません。しかし、子どもがふと立ち止まり、自分自身について考え始める瞬間には、かけがえのない教育的意味があります。 私は、一人一人の小さな心の動きに寄り添いながら、「教育とは何か」「人はどう成長するのか」を皆さんと共に探究していきたいと願っています。
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宮下 和大 MIYASHITA, Kazuhiro
大学生たちは小中高校での道徳の授業をどのように振り返っているか
麗澤大学では小中学校と同様に全学生の必修の授業として「道徳科学」という科目が配置されている。この授業は本学開校以来一貫して継続的に開講されている基幹科目でもある。当然ながら大学で道徳の授業があるということに対しては大学生たちの間でもその反応は様々である。毎年、この授業の受講生たちを対象に小中高校で受けてきた道徳教育についてのアンケート調査を実施している。今年度も六六一名の大学二年生からの回答を得たが、「道徳の授業が好きだったか/嫌いだったか/どちらでもないか」という問いに対して「好きだった」が五二%、「嫌いだった」が七%、「どちらでもない」が四一%という結果であった。つまり、約半数はこれまで受けてきた道徳授業を好意的には評価していない。
小中高校での道徳授業が「嫌いだった」理由を見てみると、「押しつけに聞こえた」「きれいごとに聞こえた」「当たり前のことばかり」「正解がわからない」などが挙げられるとともに、授業のスタイルに対する苦手意識が非常に多く挙げられる。「自分の意見をまとめて発表するのが苦手だった」「人前で話すのが苦手だった」「自分の気持ちを伝えるのが苦手だった」など、道徳の授業が双方向的な対話を中心として自分の意見を表現することを求められるところに苦しさを感じていた学生が少なくなかったことが垣間見える。
このことは道徳の授業の範囲を超えたクラスの雰囲気や関係性、学校の校風など、より大きな文脈での検討を要するテーマでもあるが、実質的な道徳教育を進めていくためには欠かすことのできない課題ではないだろうか。